〜知床仙人の徒然コラム〜

知床仙人徒然の記

   はじめに

 人間は自然の一部であり、地球そのものである。昔は人間もほかの動物のように自然を感じ取ることができたはずだ。
 しかし、近代文明は人間と自然を切り離し、両者の間に壁を作った。それは産業革命以来という人もいるし、
 日本では明治以降とか、戦後からという人もいる。

私が育った時代の知床には、いわゆる近代文明と呼べるものはなかった。特に電気と車がなかったことで、
 知床は今の10倍も100倍も大きく感じられ、人々は自然に畏怖の念を抱いていた。
 そして、自然のすべてに命があることを感じ取りながら暮らしていた。

 私は、陶器を作ることを仕事にしているが、つくづく自然に学ぶことが多い。まっすぐ伸びた木も曲がった木も、
 その条件の下で、あるがままに生きていて美しい。人間がわざとらしく曲げて作ったもののような嘘がないからである。
 また、骨董の名品などが秘めている深い美しさには心を打たれる。どれもが極めて素直に作られている。
 昔は人の心が純粋だったのだろう。私も陶器はなるべく素直に、自然に作ろうと心がけている。

これから私が書こうと思っているのはそういう話だ。仙人だからといって怪しい術とか、大冒険の話ではないので
 誤解のないように願いたい。


      第27話 「日本の工芸 浄法寺(じょうぼうじ)塗り古代くりぬき盆

     東北で拝見する機会に恵まれた。江戸初期か、もう少し古いものだという。
     
     盆の直径は36センチほど、高さは約16センチ。ひとつの木塊から掘り出され、漆が塗られている。
     よくよく聞いてみると、作られた当時は真円だったものが、木目の間が長い年月の間にやせて、現在の
     だ円形になったのだそうだ。
    
     塗ってある漆だが、寒冷地の漆は南方のものに比べて粘度が低いので、厚く塗るために、何度も重ね塗り
     してあるという。木地にしっかり漆がしみ込んで、非常に堅牢になっている。
    
     裏返して、高い高台の内側を見ると、丸ノミで壁をザクザクと2〜3本削ってある。それぞれが違う削り方に
     なっているのだが、これは筋切りといって、後々、木が暴れて曲がったり割れたりするのを防ぐために施さ
     れている加工だそうだ。木地師が、作った時に、それぞれの筋の脈を見て彫ったものだという。
     
     聞けば聞くほど感嘆するばかりである。これが熟練の技というものか。
     昔の職人、恐るべし!

       第26話 「日本の工芸について」  2010年7月28日 


    
本の工芸というものは、本来、自然がその背景にあり、自然に従い、素材に
   従って仕事をして来ました。そこに日本の文化、伝統が加わって、格調の高い、
   シックな本当の美に至ったものであります。
茶室などはその典型のひとつと
   言えるでしょう。民藝運動の祖である柳宗悦や、魯山人なども、こういった
   ところを深く理解しておりました。

   このような考え方は日本人独特のものだと思っていたら、ロダンなども「芸術
   とは自然が人間に映ったものである。自然を理解し精通することと、心の鏡を
   磨くことが肝要である」と言っております。
   
   
知床に生まれ育った私にとって、自然はいつでも身近な親しいものでした。
   知床で自然の真理に出会い、それに従って作陶してきました。どこに住もうと
   どこで制作しようと、私の精神に刻まれた知床の自然の真理は変わることが
   ありません。素直に従い受容しつつ、今日も益子で焼きものを作り続けています。


   
    第25話 「戦争を知らない子供たち」 2006年1月3日

  土と向かい合って黙々と物を作っていると、とりとめのないことが頭に浮かんでは消える。
  歌はメロディが付いているせいか、一度浮かぶと何度も繰り返し浮かんできて、その日一日の
  テーマソングになる。
  今日はジローズの「戦争を知らない子供たち」・・・私たちの青春時代を代表する歌である。
  あの頃この歌を熱唱した人たちは、みな五十代になった。平和の恩恵を受け、平和のありがたさを
  享受してきた世代だ。
  しかし、近頃の日本は変だ。自衛隊がイラクへ派遣されたり、改憲が声高に叫ばれたりと、背筋が
  寒くなるような風潮になってきたではないか。
  大体マスコミの世論調査もおかしい。「国を守るため、平和を守るためなら、あなたは戦いますか」
  なんて、そんな質問がそもそも間違っている。日本は、戦後、まず戦わないことを選択した。それを
  実行し続けるのは日々の政治の問題だ。政治とマスコミは国民をリードしているという、強い自覚を
  持たなくてはいけない。
  あの頃みんなで歌ったように、「平和の歌を口ずさみながら・・・」みんなでいつまでも歩いていこう。

 24話 新年号 「少年の心」 200511日 

 新年明けましておめでとうございます。
 
 昔からよく万年青年とか少年の心と言います。
 この言葉を使うときは修飾とか表現の範疇を超えて、皆、自分は青年や少年だと
 思い込んでしまう節があります。日本人は特にこの傾向が強いという人もいますが、
 真偽の程はわかりません。
 
 人は夢中になって何かに打ち込むとき少年の心になります。
 皆さん今年一年、少年の心で明るく頑張りましょう。

 第23話 知床の課題 200475日(月)

 知床は今年、世界自然遺産に推薦され、来年の登録が確実視されているところである。しかし、登録に伴なって生じる規制や、国立公園としての将来的なビジョンについて、町から住民への明確な説明と充分な話し合いが行われたとは言いがたい。特に漁業と観光に携わる人々に取っては大きな影響があるはずなのに、きちんとした説明がなされていないことが住民の不信を招いているのだ。以前から構想はあったのだから、もっと早くに地域と話し合うべきだった。北海道新聞の知床特集の中で、地元食堂経営者が「機が熟していない」と言っているのは、まさにその通りなのである。

 私に言わせれば、知床の現状は課題が山積みだ。まず知床五湖の駐車場だが、現在行われている料金の徴収は止めたほうがよい。道外の人が北海道に思い描くイメージは、広大な大地と温かい人情だそうだ。北海道も斜里町も、観光客を暖かく迎えよう、親切にしようをスローガンにしているが、その実、どこへ行ってもカネ、カネ、カネ・・・これではせっかくの良いイメージが損なわれてしまうだろう。
 
 次に夜の国立公園内をバスで走り、強烈なライトを照射して動物を探して回る「ナイトウォッチング」なるものは、絶対に止めなくてはいけない。人間が立ち入ることは、動物や木々などの自然にとっては
大きなストレスである。昼間は入らせてもらうが、せめて夜はゆっくり休んでもらう。それが国立公園という名を冠する地域の見識というものであろう。
 
 また、自然センターが行っている散策ツァーでは、クマの冬眠穴に客を案内し、
(もちろんクマがいるわけではない)中まで入らせるらしいが、テリトリー意識の強いクマにとって、これは大問題である。そこまでクマの生存権を侵害する権利は人間にはないはずだ。そして、クマをワナで捕獲して発信機付きの首輪を付け、あげくに「人間の怖さを学習させる」と称して、散々痛めつけて放したり、人と遭遇する危険性のあるクマはゴム弾により追い払う現在の手法は、知床では無理ではないのか。この管理のしかたの(このリンチ的な部分は知床独自のやり方らしいが)先進地であるカナダやアラスカに比べて、知床は面積が狭すぎて、追い払われたクマの行き場がない。だからこのやり方では、ただ単にクマに過大な負荷を掛けるだけである。今回の知床五湖の状況(クマが出没していて危険なので、しばらく立ち入りできていない)は、その証であろう。クマは本来我慢強い動物だが、追い詰められて逃げ場がなくなったと感じたら、反撃してくるのは野生動物として当然のことだ。

 以上のようなさまざまな問題を解決するためには、知床のとらえ方を変える必要があるのではないか。クマだ、フクロウだと個別に考えるのではなく、動物も植物も土壌までも含めて、知床を一つの生き物と考えるべきだと思う。知床に在って知床と無関係なものは何もないのだ。

 知床の観光と漁業が成り立っているのは、ひとえにこの大きな自然のおかげである。この自然を守り抜くしか知床の生きる道はない。そして行政の第一の使命は、産業や住民を守る事であるはずだ。町も、また職員も、このことを今一度肝に銘じて、町民と誠実に話し合いをして解決して欲しいと、切に願うものである。

 22話 知床の自然ただ今不調・その2 2004415日(木)

 昔、活力があった頃には、自然は全体でひとつの意志を持って、繁栄するための方向に進んでいた
 と思う。空気でさえもそんな力を感じさせていた。枯れ伏した草や木は、すぐさま次の命になって
 飛び起きてくるようだった。人間の気付かない、触媒のような働きをするシステムが昔はあった
 のかもしれない。
 
 今の知床で、目に見えて自然の崩壊がひどいのは、拡幅して舗装した道路のそばである。木々が
 次々に枯死しているのだ。
 交通量の問題ではなく、知床の自然にとっては、
30年前の狭い砂利道が、耐えられる許容範囲の
 限界だったのだと思う。細い砂利道の頃は、周囲の植生が勢いよく盛り返してきて道路に覆いかぶ
 さるので、毎年ツルや枝を伐り払わなければならなかった。林の中の道路では、上を見上げると、
 空の幅は道路より狭いくらいだった。
 それなのに、その後それ以上に拡幅し舗装した現在の道路では、年々周囲の植生が後退し続けている。
 これは深刻な自然の危機である。
 
 そして知床の自然にとってもうひとつの大きな脅威は、夜の自然ウォッチングと称して、夜間の国立
 公園内を走り回るバスだ。
 あるとき私は衝撃的な光景を見てしまった。たまたま温泉からの帰り道だったのだが、大型バスが
 強力なサーチライトであたりを照らしながら走っているのに出会った
 その強烈な光線が、多分フクロウだと思われる大きな鳥に一瞬当たったその時、その鳥は大きく
 バランスを崩して、きりもみ状態で岩尾別川の川原に墜落して行ったのだ。あのときの驚きと怒りは
 今でも忘れられない。
 こんな人間の蛮行がどれだけ動物を苦しめているか、生き物に圧力を加えているかということを
 私たちは正しく認識し、今すぐにやめるべきである。観光客でにぎわう知床であるが、せめて夜だけ
 でも、知床の動物に静寂を返してやって欲しい。
 動物はそんなことでストレスは感じないとか、私の言うことに根拠はないとか言う人たちの、そう
 いう傲慢な考え方が、知床を、いや、地球をここまで痛めつけ、ひいては人類の存在をも危うくして
 しまった元凶なのである。
 今の知床の自然の活力の衰退は著しく、簡単には回復できそうもないと私は感じている。変わって
 しまった空気が昔に戻る気配が感じられないからだ。

 誤解しないで頂きたいのは、私は皆さんが自然の中に入って行ってはいけないと言っているのでは
 ない。昼間、自分の足でぜひトライして欲しい。そして知床の本当の自然を味わい、美しさと厳し
 さ、言葉を失うほどのすばらしさに感動して欲しい。そういう触れ合いを積み重ねて、本当の自然
 の価値を知り、自然を守りたい、残したいと思う人が増えてくると思うからである。

 まあ、私は基本的には楽天家なので、いつもこんなことを深刻に暗く考えて暮らしているわけでは
 ない。
 何か奇跡が起こることを心のどこかで期待しながら、日々、知床で楽しく暮らしてはいるのだが・・

  第21話 知床の自然ただ今不調・その1 2004410日(土)

  私は知床で生まれ育った。
  知床の山菜や野菜、知床の海の魚を食べ、知床で呼吸して生きてきた。そのためか感覚的に
  わかる物事がある。

   30年ほど前から、知床の自然が活力を失いだしたのだ。。そして、その変化の仕方が最近ず
  いぶん加速して来ている。気がかりなので、自然全体をなるべくつぶさに見るようにしてい
  るが、何となく解るのは、自然の活力はバイオリズムのように上下しているようだという事
  である。

  こういうことをマスコミの人間に話すと、「科学的根拠はあるんですか?」などと言って、
  はなから取り合わないが、そもそも科学とは、時に大胆な仮説を立てながら、起こった現象
  などを解き明かして積み重ねてきたもので、何もかも最初から計算で割り出して解った事で
  はない。そしてまだまだ解っていない事も多いのだ。
  それなのに、さも自分は科学的な人間だと勘違いして、人の言う事をバカにするなんて愚か
  の極みである。皆が皆、そうだとは言わないが、往々にしてマスコミに属する人間には、
  考え方が横柄で横着で、意外と鈍感な人が多いように思う。

  さてつまらぬことに字数を費やした。本筋に戻ろう。

  かつて知床の自然は、今よりはるかに豊かだった。今とは空気が違い、植生が違い、昆虫も
  動物も魚も違っていた。全てがもっと活力に満ち溢れていた。
  昔はどの種にも主(ぬし)のような威厳のある大物がいたものだ。
  渓流には
50メートルごとに立派な尺ヤマメ(30センチ以上ある大物)がおり、小学生が巨大
  なクワガタを見つけてきたり、動物も海の魚もこんな感じだった。今は全ての種類が小型
  化し、その数も著しく減少してしまった。
  山そのものにしても、取りあえず木は茂っているが空ろである。乾燥し、内容が砂漠化して
  いて、いわば骨粗しょう症のようになっているのだ。
  見ただけでそんなことが解るはずがないという人もいるが、解る人には解るのである。農家
  の人やプロの八百屋なら、野菜をひと目見ただけで、その味、実入り、鮮度、ランクなどの
  全ての情報が解るし、漁師や本当の魚屋は、魚に関することは全てひと目で解るのと同じだ。

  ただ、自然のサイクルというのは、人間の寿命に比べて時間の尺度が長いので解りにくいの
  だ。

  例えばミズナラの森の寿命は
500年と言われる。ミズナラの森にはミズナラの若木は育たな
  い。ミズナラは動物に大量の実を与えることによって、それを遠くに運ばせ、離れた所に
  若い林を用意しているのだ。成熟しきったミズナラの森が滅んで、再びミズナラの森になる
  には違う樹種の森と交代しあって最低
3世代はかかるだろう。
  同じ時間に生きていても時間の長さはずいぶん違うのだ。
  続く

 第20話 尾崎豊・・ その3  2004326()

 尾崎の詞は、当時の彼の年齢から考えると、ずいぶんませているし背伸びしていると思う。
 そしてそのませ方や背伸びの仕方は、昔の、早くおとなになりたかった私たちそのものなのだ。
 青春時代の私たちと彼の歌とは、波長がぴったり重なるのである。
 尾崎のナルシシズムとニヒリズムは、私たちの世代のそれと全く同じものであり、尾崎の詞は尾崎
 自身の心であると同時に、共感する私たち自身のものでもあるのだ。
 私たちが生きてみたかった世界、生きてみたかった夢が、彼の詞の世界なのだ。彼の歌は私たちの
 ために用意されたものともいえるのだから、引き込まれるのは当然だろう。

 尾崎の歌には普遍性があるといわれる。それを否定はしないが、若者だけでなく、私の世代のよう
 なおじさん、おばさんまでもが飛びついた理由は、そんなところにあるのではないだろうか。
 
15の夜」の魅力は『盗んだバイクで走り出す』ことではなく『やり場のない気持ちの扉破りた
 い』ことであろう。この歌を聴くと、ジェームス・ディーンが主演した「理由なき反抗」が重なっ
 て浮かんでくる。

「闇の告白」では人間社会の愚かさが、「汚れた絆」や「ふたつの心」では、続くわけのない恋愛の
 痛々しさや、恋愛中の人の心の多様さ、複雑さを、同時進行でたくみに書いている。

「卒業」は、若者の心の鋭さと傷つきやすさ、そしてロック調の曲が現しているものは、もちろん社
 会に対する反感や自己に内在する葛藤であろう。

COOKIE」の『新聞に書かれた人脅かすニュース・・・空から降る雨はもうきれいじゃないし 晴れた
 空の向こうは季節を狂わせている 正義や真実は偽られ語られる 人の命がたやすくもてあそばれ
 ている・・・』今の深刻な環境問題や、アフガン、イラク問題を予知していたかのようではないか。
 この歌の最後の言葉は『急ぎすぎた世界の過ちを取り戻そう』である。はたして私たちは取り戻せ
 るのだろうか。
 
 そして最後に「僕が僕であるために」
 この歌は尾崎が、全ての人に愛を込めて書いた歌だと思う。一部を抜書きすることはできない。よ
 くよく何度も聴きたい曲だからだ。

 戦後に育った私たちは、いつまでもおとなになりきれない大きな子どもなのかもしれない。
 近頃になって、若者達の「自分探し」という言葉がよく聞かれるようになったが、今回の文を書い
 ていて思ったのは、すでにあの頃の私たちがそれをしていたのだということだ。
 そしていまだに探し続けているということに気がついた。そういう人間にとっては、尾崎豊は確か
 に普遍であり続けるのだ。  

 第19話 尾崎豊・・・ その2  2004321日(日)

 戦後の日本は民主主義国家となり、学校では自由と権利を前面に押し出した教育だった。
 私は大学へは行かなかったが、ユースホステルを訪れる多くの学生や、また若者達が自由と青春を
 謳歌していた。
 しかしそれは、一部の若者にのみ、ひとときの間許された、にせものの、かりそめの自由だったの
 だ。ひとたび社会に出るとそんなことは許されず、熱くなって自由や民主主義を語り合った連中も
 すぐに冷めてしまった。「いちご白書をもう一度」の中の『卒業が決まって髪を切って来た時・・』
 である。

 にせものの自由と私がいうのは、日本の封建的な社会構造に由来するものだ。
 受験戦争、学歴社会、序列制度、政治の腐敗。それらに対抗して一時は労働争議、安保闘争、学園
 紛争などが起こったが、私たちの頃には、何の解決もされないままそれらも何となく治まり、若者
 の間には閉塞感と絶望感、疎外感が吹き荒れていた。
 にもかかわらず、それらと対立しはね返すこともせずに、ただ何となくズルズルと押され流されて
 きてしまった。
 その後も官僚主義はどんどん勢力を拡大し続け、その結果が今の日本の現状である。
 私などはいまだにあの頃からのもやもやを解消できずに、今日まで引きずっている。

 長くなったが、こんなことが私にとってのフォークソングの時代背景である。とにかく尾崎の歌に
 出会って、私があの頃フォークソングに期待していたものにやっとめぐり会えたのだ。   
   続く

 第18話 尾崎豊の13回忌に寄せて  2004320日(土)


 唐突な話だが、私は尾崎豊のファンである。

 昭和
29年生まれの私は、時代的に言うとフォークソング世代になる。
 私が中学生の頃、まず高石ともや、岡林信康、ジローズなどが現れ、次に吉田拓郎、井上陽水など
 が登場して、日本のフォークシーンは黄金時代に入った。
 私たちの青春時代も絶頂期だった。友情にも恋愛にも失恋にも、私たちの世代の誰もが、当時のフ
 ォークソングに思い出の歌があるはずである。
 
 しかし、ある時を境に私はぷっつりとフォークソングや歌謡曲から離れてしまった。
 当時はユースホステルを経営していたので、常に若者の歌を耳にしていたはずだが、私の耳や心に
 歌が響かなくなった。全く魅力を感じなくなってしまったのである。自分が年を取ったのだろうと
 思い込んでいた。
 
 そんなわけで尾崎の登場にも全く気付かずにいた。ずいぶん話題になっていたはずなのに、私の耳
 は貝のように閉じていたのだろう。
 それが
10年ほど前のある日、突然、私の耳に尾崎の歌が飛び込んできたのだ。それからは他のファ
 ンの人たちと同じようにどんどんはまっていった。

 尾崎の歌の詞を聞いていると、自分の心の中の満たされていなかった部分が少しずつ埋められてい
 くように感じる。それはなぜなのか、考えてみた。(もちろん当時のフォークソングが好きだった
 人もたくさんいるわけで、それに異論を唱えるつもりは全くない。あくまでも私の場合について申
 し述べているに過ぎないので、お断りしておく。)
 
 私の心の中では、フォークソングは「戦争を知らない子供たち」で絶頂期に入っていたのだろう。
 だからこれに続く歌はもっと泥臭いもの、あるいは反戦を訴えるものへと進むことを期待していた
 のだと思う。
 しかし、日本のフォークソングはこの後、恋愛歌謡フォークへとなだれをうって転落していく。
 (あくまで私にとって、である)  続く


   第17回 高麗茶碗考 「三島の美」 
2004312日(金)
 

            写真調整中         写真調整中

    昨年、私のところでは「三島」を多く手掛けてみました。三島、あるいは三島手(みしまで)と呼ばれる陶器は、      
    朝鮮、李朝の時代に生まれたもので、
1516世紀にかけてピークを迎えた焼き物です。
   
    三島の中でも、彫三島や花三島は今の日本でもたくさん作られていて、なじみの深いものです。
   
    しかし、美術館を訪ねたり書籍で調べたりしてみると、ひとくちに三島といってもその模様の多様さは驚くばかりで、
    
    その中でも強く心を惹かれたものがいくつかありました。そのうちのひとつは「来賓三島」(らいひんみしま)
    
    あるいは「来賓手」(らいひんで)と呼ばれているものです。来賓手という名の由来は、器の見込みに、
     
    多くは『来賓寺』と彫られていることによります。この来賓寺というのはお寺のことではなく、宮廷の迎賓館の

    ことであって、そこで使う器に施された模様です。もうひとつの三島には特に名前はないようですが、
    
    どちらも大層きれいで品格が高いものです。
    
    写真の二点はそれらに倣ってうちで再現したものです。馬上杯(ばじょうはい)の方が来賓三島です。
    
    どちらの器も形はゆったり見えますが、実際には薄手に作ってあるので、模様を施すことはなかなか難しいのです。
     
    特に来賓手の方を再現するのは至難の業でした。何度も失敗しては作り直し、試行錯誤を繰り返して、
    
    やっと何とか納得できるものが作れました。私たち(私と息子)が古いものを再現する際に心掛けている事は、
     
   「器の美しさの本質について深く考察すること」です。これはどれだけ掘り下げても過ぎるということがありません。
    
    古くて良い物の美しさは、単なるうわべの装飾の美しさではありません。
    
    それは色や模様が施される前から既に美しくできているのです。なぜ、どこが美しいのか。
    
    私ひとりが考え付くことは浅く低いものです。それを探る時、私たちは多くの書物の力を借りなければなりません。
     
    色々の分野の方がさまざまな足跡を残しておられます。常日頃それらをなるべく多く読むことが、まず肝要でしょう。
     
    何度かその名を書いたことがありますが、柳宗悦(やなぎむねよし・又はそうえつとも)の民芸論などは、
    
    誤解せずに読むと、大切なことの殆どが解き明かされているように思います。私は柳の理論に傾倒していて、
    貧乏もいとわずにやってきましたが、彼の理論を忠実に実行するのは現代社会では殆ど不可能に思えます。
    
    なぜなら社会構造が大きく変化し、また、日本人の美意識が著しく衰退してしまったからです。もちろん私自身の
    
    力量不足が一番の原因ではありますが・・・
    
    作品は人であるといわれる通り、私達ものつくりは、人前に自分をさらけ出しているようなもの。
    
    北大路魯山人も「まず人を作れ。それが基礎工事である。」「何を見ても“わからん”では人として生まれた価がない」
    
    と言っています。
     
    とにかく古い良い物をよく見て、その内容のできるだけ多くをわかるようになりたいと精進しています。

      

第16話 益子からの帰りに  20031118日(火)

例年通り11月1日から4日まで益子の陶器市に行ってきました。今回も多くの方々のお世話になり、たくさんのお客様においでいただいたことに感謝し、お礼申し上げます。

さて、益子からの帰路、骨董屋を開いている宮城の友人の所へ寄りました。骨董好きの祖父、父、そして彼と、脈々と受け継がれてきた骨董好きですから、彼のものを見る目の確かさ、知識の豊富さは驚くばかりです。
店には古い浄法寺(じょうぼうじ)塗りや秀衝碗(ひでひらわん)のすばらしいものがあります。今回は漆器、陶磁器を数点いただいてきました。

さて、ものを見るということについて考えてみると、おもしろい事に気付きます。
例えばすばらしい鉢を目の前において見た時、見えているものは人それぞれ違うのです。ですから、たとえ師弟といえども、同じひとつの鉢を目の前にしていても、教えられることや伝えられることは多くはありません。
私は外観だけを真似るのではなく、内容やポイントをつかみ取り、それを作品に生かしたいのです。古いものから学びながら作ることが私の作陶の楽しみでもあります。参考になるのは陶磁器には限りません。漆器、木工品、書、日用品など、良いものはすべて手本になります。
私は若い頃から彼とその父上に骨董のすばらしさを教えられ、たくさんの古くてよいものに触れることができました。そのことは、きっと今日の私の作陶に生きているはずですし、生かしたいと心がけています。

15話 二代目知床仙人について  2003725日(金)

久しく知床仙人について書いていなかった。今日は筆の走りがいいので、二代目について書きとめておこう。
平成
12年、62才で他界したOさんのことである。

Oさんはもともとはアルピニストで、国内の山はずいぶん歩いたらしい。放浪の旅の途中、知床で初代仙人と知り合い、一年半ほど一緒に暮らした。当時キツネ撃ちをしていた初代仙人は、登山道を歩くことはなく、二人はもっぱら道のないところを歩き回った。
その後、昭和
40年代中頃に民宿を始めた初代仙人と別れて、Oさんは羅臼町側のラウス岳登山口に山小屋を開いた。そしてますます知床の山歩きに打ち込んだのである。25千分の1の地図に自分の歩いたコースを記し、ほぼ塗りつぶしてしまった。登山道は夜もずいぶん歩いたそうだ。行き着くところまで行った時には、時間と空間の壁を越えるらしい。歩いているうちに身体が風のようになり、普通は4時間かかる行程をわずか30分ほどで歩いてしまい、それでも全く疲れないということが何度もあったそうだ。

Oさんは殺生を嫌い、自然を愛し、自然と対話できる人だった。そして真の教養人でもあった。音楽が好きで、山小屋にはピアノがあり、たまに作曲もしていた。書画骨董を愛し、とりわけ書はかなり熱心に研究していて、書跡名品集などを山のように所蔵し、修書にも励んでいた。また、子供の頃から茶の道にも深く親しんだ人で、茶の道具にも詳しく、鑑賞眼も高かった。
日本の美は、精神世界と深い関わりを持っている。
Oさんは、欲を持たず、世俗と離れていたからこそ、高度な精神世界を修行僧のように潔く生きたのだろう。すべての意味で仙人暮らしに徹した人だった。

Oさんの豊富な知識と、その高い精神の在りように、私はやきもの作りとして強く刺激を受け、また多くのことを学ばせてもらった。
私ごときが同じ名を冠するのはおこがましいのだが、敬意を表して、二代目知床仙人としてあがめさせて頂いている次第である。

14話 知床岬沖の釣り  2003628日(土)

6月某日、私は知床岬沖へ釣りに出た。朝から快晴。ウトロ港を出て、凪の海を岬へ向かう。イルカが追いかけて来て、ジャンプしながら競争している。さらに30分くらい走ったところで、前方にクジラが姿を見せた。ミンククジラのようだ。この日は帰路にはツチクジラも見た。「牛若」に乗ると、クジラ、シャチ、そして海岸を歩くヒグマなどを見ることが断然多い。船頭のこういう能力は最初から備わっているもののようで、努力したからよく会えるようになるものでもないらしい。今年「牛若」は7月と8月(土、日をのぞく)は自然観察(ネイチャーウオッチング)をすることになった。乗船ご希望の方は、予約取りまとめ先のウトロの喫茶兼民宿・「ボンズホーム」へ問い合わせてみるとよい。       電話   01522(4)2271

さて肝心の釣りの方だが、岬沖へ到着して釣りを始めてみると、潮が悪くて魚が食いつかない。ところがこんな中、最近息子が始めたジギングなるものがなかなか好調だ。釣れない我々を尻目にひとりで次々とタラを上げる。60センチから大きいものは80センチくらい。私はそれでもしばらくはいつもの胴付き仕掛けでやっていたが、小さなホッケが少ししか釣れないので、ジグに変えることにした。すると途端におもしろいように大きなタラやホッケが釣れる。最近、ジギングがはやりだしている。ふだん船で釣る魚は、鮭、ホッケ、ソイタラ、ガヤ、ヤナギノマイ、クチグロマス、イカ、カレイ類であるが、イカとカレイ類を除いてはすべてジギングで釣れる。数も充分釣れるし、大物も期待できる。特にタラは、エサや毛ばりの仕掛けより、ジグの方が圧倒的に大物が多い。去年の秋に、「牛若」の客が鮭釣りにジギングで好結果を出しているらしい。
やはり知床は釣りの楽園である。7月末になると海岸からのカラフトマス釣りも始まる。魚より釣り人の数が多いところにいる釣り人は、一度来てみてはいかが?

13 斜里町における世界遺産の問題点  2003626日(木)

現在、知床は世界遺産の候補に上がり、注目を集めている。日本の検討委が、国内の多くの候補から、知床を含む三地区に最終候補を絞り込み、中でも知床が最も有力ということで、各マスコミにいっせいに取り上げられた。
インターネットで調べてみると、将来は公園利用者から一ヶ所につき
1000円を徴収しようなどということも検討しているようだ。また、従来は立ち入りが規制されて観光客がはいれなかった場所も、人数を制限し、さらに有料ガイド付きで入れるようにするらしい。
生態系の密度が高い知床では、今まで一般人が立ち入れなかった地域にまで人が出入りするようになると、生態系に重大な影響が出るだろう。新たな観光開発とも言うべき、憂慮される事態である。
世界遺産になることが、地域の生活にどのように関わってくるのか、意外なことに地元民にはほとんどわからない。斜里町は数回説明会を開いているが、町民に対しては「新たな規制はいっさいない。観光客が増えるだけだ。」としか説明していない。世界遺産に登録する目的、めざす将来像などは、全然明らかにされていないのだ。
新聞記事によると、登山は人数制限が必要とか、漁業との調整が必要になるだろうなどと書かれているが、地元にとっては全くの寝耳に水で、困惑も多い。地域住民をつんぼさじきに置いて、行政が決めたことを押し付け、権力で住民を従わせるという傲慢な手法が、また使われている。
今回の世界遺産問題を通しても、この町の民主主義が行政によって歪められていることを、改めて思い知らされるばかりである。

12話 (11話からの続き) 2003621()

では、彼は民芸だけの人かというと、そうではない。
先ごろ私は柳の「朝鮮茶碗」という文に出会った。「朝鮮茶碗」とは、李朝の井戸や、三島手の茶碗のことである。
私もこれまでに、美術、博物関係の評論や、茶道の関係の人々が書いた数多くの文を読んできたつもりだった。だが、柳宗悦ほどそれらを深く理解し、その考察を私に示した人はいなかった。私はこれを読んだ時、目からうろこが落ちる思いがした。
それは次のような内容だった。井戸茶碗とは、李朝時代の朝鮮の、無名の職人による無欲の作である。もちろん茶道など知らないから、茶道具として特別うまく作ろうとか、茶人に認められようと媚びたりおもねたりすることもなく、全くのびやかに自然にできている。そして万人が認めるとおり、他のどんな茶碗よりもすばらしく、抹茶碗の最上位におかれていいるのだ。
私がもっとも注目したのは、茶と禅を通した検討である。茶と禅は深い関係にあり、茶の精神も禅を離れては存在しない。この禅というのは、仏法においては自力門と呼ばれ、自己の力量で生き抜くことである。
しかし井戸茶碗は、考え方としては対照的な、他力道から生まれている。それが自力道から生まれた在銘品や作家物すべての茶碗より優れた名品として君臨し続けている。これは他力を尽くされた結果が自力の極みにも触れてくるからで、禅茶人が井戸茶碗に禅美を見たことは誤りではないと言っている。
そして、鑑賞家ややきもの作りが見落としてきたことを次のように指摘している。
「朝鮮茶碗の風雅は、雑器の性質に基づいている」
「結果からの観察ばかりして、その背後に控えている過程や原因を追究していない」
「日本人はなまじ味わいがわかるだけに、そこにいつまでもこびりついてしまう。」
民芸の人といわれる柳であるが、茶陶をここまで理解した人は、滅多にいないであろう。民芸と茶陶などという言葉をいたずらに弄ぶことを、私たちは慎まなければならない。そして日本の雅に学んだことを少しでも普段の暮らしに取り入れて心に潤いを持ちたいものだ。
柳宗悦についてはもっと詳しく書くべきだが、なにぶんホームページなので仕方がない。
機会があれば、ぜひ彼の著書を読んで頂きたい。

  第11話 民芸運動の開祖「柳宗悦」について 2003619日(木)

焼き物で民芸というと、多くの人は浜田庄二、河井寛次郎を思い浮かべるようだが、民芸運動の創始者は柳宗悦である。
彼の著作は多いが、「手仕事の日本」・・岩波文庫「柳宗悦・民芸紀行」・・岩波文庫などは、旅行記としてもおもしろく読める。
工業の近代化の波の中で、正しい手仕事から生まれた美しい工芸品が急速に衰退し、消えていくのを惜しんだ柳は、ひとつでも多くの工芸が生き残れるよう手を尽くし、あるいは記録だけでも残そうと、各地を訪ね歩いた。
彼はそれらの手仕事の中に、積み重ねられてきた伝統を見抜き、往時の工人たちの生活や息遣いまでも感じ取り、慈しみをもって見つめた。
焼き物、漆器、布、紙、鋳物などなど、庶民の安価な生活用品が持つ、清く正しい美に深く感じ入ったのだ。それは職人の無私無欲な心で作られたからこそ生まれた美しさだと、柳は言う。
職人の暮らしは極度に貧しかったが、そんな境遇にありながらも、彼らは常に真摯な心で、黙々と誠実に作り続けてきたのである。その底流にある庶民の生活を、土着の原始的な信仰にいたるまでも深く掘り下げ、宗教的なまでに昇華された民芸理論を構築したのが柳宗悦であった。 
        (続く

10話 「続・初代知床仙人」

読者の皆さんは、今回は「二代目知床仙人」の話になると思っていただろう。私もその予定だったが、初代仙人とのイワナ釣りの事など思い出したので、引き続き書くことにする。
 初代の仙人は渓流釣りが得意だった。仙人の宿にはまった若者たちは、何日も連泊して、今日は山登り、明日はトレッキング、カムイワッカ行き、あるいは断崖を巡るコースなどと知床の中を歩き回ったものだ。そして週一、二回のイワナ釣りも楽しみにしていた。
 当時、知床の渓流にはイワナ(赤い点があり、北海道ではオショロコマとも呼ぶ
が多くて、大げさに言えば、ひしめき合うように生息していた。押しくらまんじゅう状態のところに鈎の付いたミミズを投入すると、イワナがわれ先に飛び出してくる。われ先にというのは何匹ぐらいかというと、かなり目のいい人でないと見えないが、一つのポイントに一投して飛び出してくるイワナは、当時なら大体30匹はいた。
 たいていは大き目のものから釣れる。弱肉強食の自然の摂理だろう。続けて
56匹釣ると、残った魚は警戒するので釣れなくなる。しかし、次の日になると、知床のイワナは残りの25匹が懲りもせずに、またわれ先に飛び出してくるので、同じポイントからまたも34匹は釣れる。本州のイワナに比べると、単純というか、すれていないというか、おかげで人間にとっては釣り天国、桃源郷、そう、まさにそここそが桃源郷だった。
 自然の中でも、渓流というのは特別に景色が複雑である。切り立った断崖、岩を噛んで流れ落ちる水、ひとつの流れにいくつもの滝があり、すべてのものが苔むしている。木や草は崖に垂れ下がって花を付け、樹形をたわめて、人の目に妙味を見せる。いわば日本庭園の究極の姿である。行く先々でそれぞれの景色を見せ、そのどれもが美しく、そして自由である。
 誰もが岩の上で釣竿を操りながら、緑の中に、ふと、溶け込む。それは悟りの境地にも似ている。溶け込もうと意識していない人が、連続的にではないが、断続的に、ふと、溶け込む。狙っているわけではないからか、ふと、戻る。自在に出入りしているようである。
 
 誰にでもおもしろいように釣れたので、若者たちは皆イワナ釣りに夢中になった。大体いつも女の子たちが「もう少し、もう少し。」と粘るので、帰りが予定より遅くなったものだ。夕食の後でイワナを焼いて、その夜同宿した者で食べながら、ちびちびと焼酎を飲む。ランプの灯の下で、今日の参加者が冒険フィッシングの感動を熱く語り始める。皆でワイワイやっているうちに、尾ひれ、はひれが付いて、だんだん大げさになってくる。そうなると、次はいよいよ真打登場。仙人の出番となり、夜も更けて行く。
 部屋の熱気を抜けて外へ出ると、真っ暗な大自然の中の夜。空を見上げると、降って来そうな星空である。見える星の数が多すぎて、星座が判別できない。あまりの多さに空が黄色く感じられるほどだ。夜に車が走ることはなく、完全な静寂の中で寝転んで星を見上げていると、星空に吸い込まれているようだった。
 都会から来た若者たちは、この夢のような桃源郷に遊ぶうちに、いつしか身も心もすっかり洗われていた。その思い出は、あの夏の日に仙人の家に集った人々の心に、今もきっと残っているだろう。思い出すたびに輝きを増していく、夢のようなひと時だったのではあるまいか。

9話 「初代知床仙人」

私は「知床仙人」を名乗っているが、正しくは「三代目知床仙人」だと思っている。そこで今回は、「初代知床仙人」について書こうと思う。
「初代知床仙人」とは、その昔、知床五湖の近くでもぐりの民宿をしていた
K老人のことである。彼は昭和40年代前半に、どこからともなく知床へやって来て、初めのうちは鉄砲撃ちをしていた。山の中でキツネなどの獣を撃ち、皮がまとまると町へ行って金に換えて、弾や食糧を買い込み、何日か飲み歩いて、金を使い果たすとまた山へ入って行く。当時、岩尾別でユースホステルを営んでいた私の家にも、時々立ち寄っていた。
 仙人は山へ入る時は米と塩しか持たず、おかずはすべて山で調達していた。テントすら持たずに天幕とシュラフで寝起きし、武器は山刀と単発の村田銃だけだった。銃は自分の体に合わせて銃床を切り詰め、山歩き用に銃身も少し切ってあるので、照星もない。重くては困るので、普通の村田銃より口径は小さく、弾も自分で作っていた。大型獣用は火薬量を増やしてあるとのことだった。獲物を求めて知床の山をくまなく歩いていたようだ。
 冬の間は、冬季間閉鎖される岩尾別温泉のホテルの番人になり、近くのきつねを取っていたが、
40年代半ばには、開拓者が離農した後に残った集会場で、もぐりの民宿を始めた。泊り客を山の中に連れて行き,イワナ釣りをさせたり、普通の人が行けないような所を探検したりして楽しませていた。
 夜は焼酎を飲みながら、ホラをまじえた大冒険の話に花が咲く。明るくて話し上手なので、この宿は当時の若者に大いに受けた。たちまち「知床仙人」と呼ばれるようになり、彼を慕う若者たちが居候となって、炊事や掃除などの民宿経営を一手に引き受けて切り盛りした。仙人の仕事は若者と遊ぶことであった。
 私は高校生だったが、しょっちゅうここに出入りして、仙人にはずいぶん可愛がってもらった。銃やワナを使った猟の話、山中での非常食の事など、色々とおもしろい話を聞いたものだ。
 今でもよく覚えているのは、一緒に山に行って昼飯時になると、弁当を取り出して「おっと、こりゃいかん。箸を忘れた。三越で買ってくるから、ちょっと待っててくれよ。」と言って藪の中に入って行き、戻ってくると笹を切った箸を手にしている。こんな調子で、三越はいつも愉快な仙人の御用達だった。
 当時の日本は高度成長期で、若者もエネルギーに満ち溢れ、大胆で爆発的な行動をとるものがたくさんいた。これが今日の知床観光のさきがけであり、知床仙人の絶頂期だった。
 わずかふた夏の短い間だったが、仙人とここに集まった若者たちは、数多くの物語を残した。「初代知床仙人」は、冬の間暮らしていた斜里の家で脳溢血で倒れ、その後再起することなくこの世を去った。 
    (次回へ続く)

8話 かたいやきものとやわらかいやきもの (2003年5月17日)

 やきものは硬いほうがよいか、やわらかいほうがよいか・・・
 先日、益子の原料店に寄った折のことである。客が自作のぐいのみを持ち込んで、店主に批評を求めていた。店主は鉛筆でカンカンと叩き、いきなり「だめだ、こりゃ、全然焼きが甘い。話にならん」と横柄な強い口調でまくし立てている。私にはカンカンという音からも、釉薬の味がなくなるくらい焼けすぎた色からも、焼きが甘いとは思えなかったのだが。
 さて、それではどの程度の硬さに焼けていればよいのか。陶器について言えばそれは土による。カチンカチンに焼いた方がよい土もあるにはあるが、一般的には、焼けすぎていなくて、土の味わいが死んでいないぐらいがよいようだ。骨董の名品を見ても、やっと焼けたくらいのものが土の味わいも生きていて、それが尊ばれるものだ。魚や肉でも、新鮮なものはやっと焼けたくらいのものがおいしい。焼きすぎてしまってはせっかくの素材の価値がなくなってしまう。すべて、素材が生かされなければならないという点では同じことである。 
 そして、雅味のある陶器を使うのに気配りが必要なのは当然で、業務用食器などと同じように雑に扱うわけにはいかない。基本的に、粉引きや焼き締めなどは水を含ませてから使う。頻繁に使っている場合は特に必要ないが、しばらく休ませた器は、使い始める時に水を吸わせればよい。洗う時も流しに乱暴に投げ入れたり、洗い桶にまとめて入れるようなことをしてはいけない。
 面倒に思うかもしれないが、要は器をいつくしむ気持ちと、あとは慣れである。大事にして長く使っていると、えもいわれぬ味わいが出てきて、そのうちにしっくりと自分の手になじみ、本当に自分の器になったと思う時が来る。デリケートな器を、穏やかな心で大切に使うというような落ち着いた暮らし方は、本来の日本人の感性を取り戻すことにもつながるのではなかろうか。

7話 北こぶしの花  2003510

 今日は、昼間、久々に岩尾別温泉の露天風呂に入ってきた。ウトロの町を抜けて国立公園になった所から、約13キロ奥にある温泉だ。最果ての地の春は遅い。今年は特に遅いようで、道路わきや、山の斜面の残雪も例年より多い。北こぶしの花がいつもより少し遅れて、いま満開になろうとしている。他の木々の葉もいくらかは芽吹いているが、枝先に小さな緑がかろうじて見える程度で、まだ春らしいとは言えない。こんな冷え枯れた景色の中で、北こぶしだけが、白い大ぶりの花を枝いっぱいに付けて咲き誇っている。長い冬をすごして最初に見る花だから、われわれ北国の人間にとっては、特別に思い入れが深い。
 私もある年、見事に咲いている北こぶしに感動を覚えて以来、この花を絵付けした器もシリーズで作っている。情緒的に見ると、山に暖かい灯かりがともっているように見えるので、私はそう表現したいと思っている。しかしイラストのように写実的に描かれたものでは、薄っぺらな白いやせた花に見えることが多いように思う。
 知人に良い絵を描く人がいて、彼に聞いた話だが、絵というものは写真と違って、その人が見たものが脳を通ってから表現されるので、当然強い印象を受けたものが強調されるものだということだった。ともあれ、今日も私は最果ての露天風呂で、ふっと、知床の自然に融けこんでしまう。ここは本当に時間が止まっているようなところで、いつの間にか私は思考停止状態に陥り、至福の時を過ごすのであった。

第六話 鮭を釣る(投げ釣り)2003年4月21日           
 

 鮭釣りには陸
(おか)からの投げ釣りと、船釣りがある。どちらも豪快で人気があるが、まず投げ釣りについて書いてみる。
 ぶっこみ釣りは砂浜で5本以上の竿を出す人が多い。群れが回遊してきて、なおかつ汐が良くて食いが立ったときに釣れるので、ひたすらその時を待つ。釣れだすと立て続けに来る。しかし、長くは続かないので手返しを早くしたほうが良い。
 他に浮きルアーもけっこう釣れる。30
~40グラムのスプーンの上に浮きを付け、シングルフックにタコベイトをつけ、小さく切ったサンマをつけてゆっくり引く。浮き下、引く速度はそのときによる。ルアーとしては奇妙な釣りである。たまにノーマルなルアーフィッシングが良いときもある。
 以上の投げ釣りの系統には泊り込みで粘る人が多い。猛者ともなるとワゴン車に生活道具一式を積み込み、一箇所に一ヶ月ぐらいいる。そういう人は魚を追って道内を転戦しているので、三ヶ月あまり釣り場で生活する場合もある。2
~3日顔が見えなくて、どこへ行ってきたのか聞いてみると、かかりつけの病院へ行って薬をもらってきた、というようなことである。
 鮭は体長70センチほどもある大物なので、つりキチが病みつきになるのも無理はない。近年、本州からの釣り人も増えている。

                                               

 第五話 鮭を釣る(船釣り)2003年4月21日

 鮭の船釣りは九月一日から25日間解禁になる。深さ100メートル前後の海底から釣り上げる。よく釣れる日もあれば、あまり釣れない日もある。やはり群れがいて、汐が良くなければならないので、一日中釣れるわけではない。
 仕掛けは胴付きという幹糸に釣り針が5本ぐらい付いたものだ。針の近くには赤いタコベイト、棒ウキにギンギラのシートを巻いたもの、夜光玉などの派手なパーツが連なっている。まるでお祭りの飾りのような、にぎやかな仕掛けである。餌はサンマのぶつ切りをつけ、船べりに仕掛けを並べて待機する。
 船頭が魚群探知機で当たりを付け、ここぞという場所で船を止めて合図を出す。仕掛けを投入し、重りが海底に付いたら、少し底をきり、あたりを待つ。一日中釣りをしたといっても、実際に釣ってる時間はごくわずかなので、一日のほとんどは待つ時間なのである。
 この時間に、私は景色を楽しむ。海から見る知床半島はすばらしい。目線を上げると、そこには知床連山の稜線が連なり、山すそは断崖となって私の目の前に広がっているのだ。切り立った険しい地形は人を拒み続けて、汚されぬ無垢な姿を持ち続けたのであろう。晴れた日はもちろんすばらしいが、雨の日の断崖は、それとはまた違った、圧倒的な威圧感を持っていて、一段と魅力的である。
 さて、いつ釣りに打ち込むべきか、であるが、我らが「牛若」の船頭は特殊な能力を持っていて、魚探に映っている群れに食いが立ってくると、わかる人なのである。その時が来ると、スピーカーを通して低く押し殺した声で、「オイ、来るぞ。」と言う。その瞬間から、我々は釣りに集中するのだ。そうすると、たいていの人に次々と当たりが来る。船頭はタモを持って走り回り、次々と魚をすくいあげる。船の上を、銀鱗の鮭が跳ね回る。デッキは下が空洞になっているので、ドスン、バタンという音が強調され、刺激音となって響き渡る。船上の釣り師一同は、一気にアドレナリンが噴出して、見も心もお祭り状態、全開、前後不覚・・・
 一度に2匹釣れたときも嬉しいが、私は銀ピカの大きなオスが釣れたときが、一番嬉しい。これは、かかった瞬間から手応えが違う。“ググン!”と、引きちぎっていくような力強い当たり。そして、最後の最後まで、強烈なファイトで楽しませてくれる。なぜかファイトは、陸
(おか)からの釣りより、船のほうが断然強い。
 オホーツク海のうねりに身を委ね、知床の絶景を眺めつつ、今日の釣果への期待に胸を躍らせる。しかし、そこは釣り師の業
(ごう)ともいうべき哀しい習性で、静かにじっとその時を待つということができない。仕掛けをこうした方が釣れるのでは、いや待てよ、こうかなと、せこくせこく、考えつく限りいじくり回してしまうのは、我ながら情けないことである。


 第四話 日本の自然とやきもの
) 2003年4月14日
 
日本の文化、とりわけ、やきものについて考える。骨董のすばらしさについては万人の誰もが認めているとおりである。美術館を訪れる人の多さがそれを証明している。やきものについては、桃山の茶陶という言葉を聞いたことがない人はほとんどいないだろう。現在の日本では桃山が最上位におかれているからだ。
 しかし、私はいろいろなものを見るうちにだんだん縄文のすばらしさに惹かれるようになった。そうなってくると、文化というのは一体いつから、何を母体として生まれたのか考えさせられる。いつか縄文をテーマに書きたいと思っているので、ここでは詳しくは触れないが、とりあえず簡単にいえば、風土ということに尽きるだろう。しかし、こんにち、風土ということをつきつめて考えようにも、その原点となる本当の自然が日本にはほとんど残っていない。私は、知床という、類まれな土地に生まれ育ったことに感謝するばかりである。
 そして自然も骨董も、偏見や商売など、自分の都合を離れて見ることが、まず大切であると思う。それでも一朝一夕に解るわけではなく、修行を積んだ分だけしか見えてこない。普通の生活をして、気負わず力まず続けること、とりあえず私はそのようなことを思いながら、やきものを作り続けている。



 第三話 冬の散歩 2003年4月14日

 私と妻はほぼ毎日散歩をする。もちろん健康のためである。しかし冬はちと厳しい。吹雪の日はもちろん休むが、晴れていても北風が少しでも吹いていると身を切る寒さである。私は本来怠け者であるから、除雪されていないところへは踏み込まないのだが、1月中旬に、ちょっとした気まぐれで雪の中を歩いている時に、ねこやなぎに出会った。これから更に厳しい寒さに向かう季節に開き始めているのに驚いた。木の芯まで凍る寒さの中でいったいどうして開くことができるのか、これからの寒さでどうなるのか。私たちが気まぐれに雪をこいだのはこの柳に会うためだったのだろう。
 私はほかの文の中で静かに自然に浸ると書いたが、自然そのものは静かなものではない。木も草も、風がなくてもいつでもざわざわしていて、なかなか賑やかである。近年、気付いたと言うか感じ取れるようになったのだが、酷寒の中でも木はうごいていた。寒い日は感じとれないくらい弱くかすかに、暖かい日はさわさわという感じで。けっこう活発に動いている。自然にはすべて命があって、そのことに触れられるのも散歩の楽しみである。

第一話:しいたけ採り 2003年4月1日

私は、凝り性である。熱しやすく冷めやすい。十年ほど前に突然しいたけ採りにはまった。もちろん山の天然ものである。
知り合いと二人で山に行って迷ったのがきっかけだ。彼が地図を持ち、こっちこっちなどと歩き回っているうちに、
どんどん山奥に迷い込んでしまった。二時間くらいで帰るつもりだったので、おにぎりもおやつも持っていなかった。
9時に入山して麓に下りたのは6時だった。かれこれ九時間もさまよっていたことになる。その間、
空腹と疲労で倒れそうになりながらも、手当たり次第にしいたけを採り続けたので、
二人の大きなザックはいっぱいになっていた。

これで私の凝り性に火がついた。この迷った山を自在に歩けるようにならなければ気がすまなくなり、
翌年から地図を拡大コピーしてしらみつぶしに歩いた。採りすぎるからいつも泣くほど重い。
3回行くとわき腹の肉が激減する。山菜は体に良いと言うが、私は採りに行くのが体に良いのだと思う。
しいたけ採りは六、七年続けたが、その後益子の陶器市に出展するようになり、時期が重なるので行けなくなった。

それにしても、山奥の天然もので、姿かたちが特に立派で見事なものを見つけたときの嬉しさは忘れがたい。

 



第二話:知床の釣りについて 2003年4月1日

 私はずいぶん釣りをしたので、釣りについて書く回数が多くなる。知床の渓流でも昔はたくさん釣ったが、
ある時期から魚の減少が著しくなり、回復力が弱まったように感じたので渓流釣りはやめた。今は海だけである。
海岸からの投げ釣りも、船釣りもやる。ここの海はほかの地域に比べるとまだまだ魚影は濃いのだが、
昔に比べるとずいぶん魚が減った。特に根魚は減った。そこで船釣りでは船頭の 腕が重要になってくる。

私がいつも乗せてもらう「牛若」の船頭はポイントに詳しく、しかも魚群探知機に映っている魚影を見ただけで
魚の種類が判る。さらにそれが食いが立っているか、次にどっちに向かって動くかまでも判る。
名人、達人の域を超えている。私の釣りに彼の存在は不可欠である。

私が釣りを題材に書いた文に登場する釣り船は、すべて「牛若」であることをお断りしておく。
それでも汐回りが悪い日は大物を大漁とは行かないが、そこは自然相手のこと、釣り師たる者、
それで満足できる分別を持たなければならない。

 

      大物シイラを釣る

これは知床の釣りでは番外編かもしれない。シイラという魚は暖流の魚であるから、なぜ知床で??と思う人が多いだろう。
夏になると宗谷岬を越えオホーツク沿岸に狭い幅で暖流が流れ込む7月の末からこの暖流に乗ってシイラがやってくる。
昔からカラフトマスを採る定置網に入るので、来ているのは分かっていたが誰も釣りを試みた人はなかった。
われらが「牛若」の船頭がこれに挑戦しみごとに道を開いた。引きの強さで有名な魚であることは本州の人のほうが
よくご存知であろう。しかし、嬉しいことに知床へ来るシイラはどうも大きいようである。
サイズは1メートル前後、80
~120センチぐらいのものが多い。長旅に耐えられる能力を持ったグループが、
オホーツクの脂の乗ったイワシをたらふく食べるので体力は充実している。

私は、シイラは獰猛で貪欲な魚と思い込んでいた。
糸は8号くらいでじゃんじゃん釣れるだろうと決めつけていた。
念のために4号の糸を巻いたリールも用意した。
驚いたことにシイラは目と頭がよいらしい。
太い糸ではまったく釣れなかった。例外も間違いもなかった。
ルアーはプラグかジグを全速でひくこと、ちょっとスピードが
落ちると見破られる。

そしていよいよヒット!1メートルを超えるオスは最高だ。
ご機嫌だ。申し分ない。あの扁平な頭が牽引力をより強力にする。
目の辺りでパチパチとスパークしてるようだけど、目の前か目の中かわからない。3
4分が20〜30分に感じられる。
大物シイラのファイトの面白さはあらゆる釣り雑誌などに書かれて
いるのでそちらに譲る。食べてはおいしい魚ではないので
キャッチ&リリースで3〜4匹遊ばせてもらう。


それにしても船のそばを群れが泳いでゆくのを見ると美しさに
見とれてしまう。これも自然の偉大さのなせる業である。
そして夏の太陽のなせる業も偉大なので気をつけて。
本当に焦げたように焼けるので危険である。

                               

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